昭和49年12月21日 朝の御理解



   途中から
 書いてる以上、いっぺんこう書いて、して是をこう、色々この中から御理解を頂きたいと思います。御理解のこの書いとる所。書いて。

 私共がまだ椛目におります頃、入り口が東の方にお玄関が出来た、あの時分でした。母がお夢を頂いて、あのお玄関の二枚の障子が御座いましたですね。あのいわば障子一間の戸になりましょうか。
 そのガラスをこう除けてね、あのそれこそそこ、入り口一杯のような大きな黒牛が、小倉の初代の桂先生が、その出切らんごたっとを力いっぱい引き出して下さったところをお夢に頂いたと言うんです。
 ははあ、その牛がその、母のそん時の表現が、とにかく象のごと大きい牛だったと言うております。お互い様々な難儀を持っております。いわゆる身の廻り、家の廻りその、廻りの業が様々な心の上にも、ここは本当に有り難いと思わんならん、けれども腹が立つ、是はもうおかげと思うけれどもイライラする。
 どうでも自分で自分の心一つが自由にならんのが大体人間です。それはね矢張り身の廻りです。ここじゃ大体腹立てちゃいかんと、返って御礼申し上げにゃいか。日頃教えを頂いておると、本当に一切が神愛と仰るからここは御礼申し上げにゃあならんということは解っておるけれども、腹が立ってしかたがない。矢張りこりゃ身の廻りです。
 だから身の廻りのお知らせを、あの蛇のお知らせで頂きますね。そうすっと家の廻りというは、ここでは牛のお知らせを頂きます。しかも大坪の家にそれこそ象の様な黒牛の、黒牛がね。
 これが大坪の家の廻り、成程信心しても信心しても次々と難儀な事が起こって来たり、もうギリギリ決着のところ、もうこれ以上の不幸せはあるまい。あれ程の信心し御座るとにどうしてじゃろうかという様な不幸が続き重なった。
 その上もう是以上の貧乏はあるまいという様な貧乏をさせて頂いたが、今から考えて見るとああいう、ああいう難儀というものによって廻りのお取り払い下さったんだなということを思うです。
 母がお夢を頂いた頃は、もう椛目の御広前で人がドンドン助かって、東の方へ玄関が出来た頃ですから。それも自分の力ではどうにも出来ない、いわゆる桂先生がその、牛の手綱を引っ張ってです、表へ引き出して下さったという。
 いわば他力によらなければ仕方の無い事、自分の力ではどうにも出来ない事、ここで腹立てちゃならんと思うても腹が立つ、自分の力ではどうにも出来ない事、抑制できない、抑える事が出来ない。
 例えば遊び事の好きとか、又は趣味ですかね、の人とか又はあのー、何て言うですかね、賭け事、なんかの好きな人とか、まあ盗癖のある家とかありますよね。もう泥棒はいけないということは分かっとっても、これぎりせんぞと思うたっちゃね。
 デパート当たりに行ったらね、手の方が欲しいと思ったら手の方がガタガタ震えだすそうですよ。恐ろしい事ですよ。はあ自分の家にはこげな癖があるから、是だけは改めにゃと思うてもその時になってそれこそガタガタ手が震えだす様に、ついそれを犯してしまう。廻りのせいです。
 もう自分が例えば競輪競馬とか、競艇なんかの好きな人がもうそれこそもう、それで儲かる事は無い、それで家蔵財産しまえてしまいおる家の中はその為にもう、それこそ悲しい結果になって行きおる事が解るのだけれども、もうこれぎりまあそりゃ私した事ないから解らんけれどね、もうこれぎりこれぎりでやっぱ行くのじゃないでしょうか。
 子供が泣いて隣の親が泣いて頼んだっちゃやっぱり「みせつこぶつ」して行く。どうかしてお金を、やその、借りまわってでもいく。これなんか矢張り家のめぐりです。そういう、例えば様々な廻りの為に私共が難儀をしておる。
 昨日日田からお参りされた方が、私裏にもう下がっておりましたら、親先生、是非お伺いしたい事があるからと言うので、ここへ出て来ました。その先生、お伺いしなければ分からない、今朝方不思議なお夢を頂いたというんです。
 それがその、小さい子牛がね、もう角を突き合せて喧嘩をしておる。ただの夢じゃないと思うたから、親先生にお伺いをさせて頂いて、所謂その御理解を頂きたい。
 その事をお願いさせて頂きよったら、やっぱりこの解の字を頂いた、御理解の解の字です。そして今朝ここで、はぐらせて頂いたら、やっぱりこの御理解、白紙のところを頂きますから、どこが今日の御理解になるのだろうかと思うたら、このやっぱり解の字を頂くんです。
 そこでこの解、私はその日田の方に申した事ですけれどもね、是はねあの、家と家とのね、争いごとが絶え、絶えないということだよと。角を突き合せる。そしたらもうビックリしましてね、もう親先生実はね本家と新家の方がもう長い間、あのいわばそれこそ、ま斬るの突くのとまではいかんでも、もう長年争い続けておりますとこういう。
 もう最近ではそれが山を上げて、もういよいよ出るの入るのということになって来よる。本当にもう、いわば廻りっちゃあ恐ろしい事ですという。それこそ廻りと廻りが角を突き合せて争っている。家の廻りだなと思います。先生、どういう様な信心させて頂いたら、その家の廻りのお取り払いを頂くでしょうかというて、その、お帰りになりました。
 矢張りおかげを頂く為にはおかげの受け物を作らにゃいけん。家を建てるにはまず地業地を先にしなければいけない。事業を先にせんなりに建てた家だから崩れて来る。受け物を作らんなりに頂いたおかげだから、頂いたが頂いたにならん。
 その頂いた例えばおかげいうなら財産または命。様々なおかげを受け物を受けんなりに頂いたおかげは、おかげをおかげと感じきらない。そこでね、結局はおかげの受け物を作らなければいけないということである。
 昨日は親教会に行かないと、若先生と三人で改まって、告別式の御礼に参拝させて頂きました。それから鳥栖と、星野の先生が一緒に、おいで来て頂いておりましたから、星野にもま私はここで下ろして貰うて、若先生が参りました。勿論どこへ行くでも、まお願いをしない事はありません。ちょっと久留米まで行くでも神様にお願いをするです。
ちょっと、な、若先生が、星野に参りましたから、夕方になっても帰りません。やっぱし、この山越えして行かなきゃなりませんからね。とうとう私は夕食を頂く、頂き終わるところまで、まだ帰っておりませんでした。それから夕べ、私は少しお神酒を過してから、遅うに目が覚めたら、家内が御礼を終わって、部屋に帰ってきとりましたから、勝彦達は帰ってきたかとこう申しました。ああ帰りましたよとこういう。
 それで神様へその場で無事に帰らせて頂いた事をお礼申させて頂きよったけれども、布団の上からじゃどうでもそれだけじゃすまん。そんなら起きようちゅってから、また改めて紋付袴付けて、ここへ出て来てから、その事の御礼を申させて頂いたんです。
 例えば、この辺の所がです、おかげをおかげと、あの感じる度合いの相違です。例えば恐らくなら若先生が星野から帰って来て、ひょっとしたら御広前にも出て来とらんかも、もうつうっとあの、住まいの方へ帰ったかも分かりません。しかし願うたからには矢張りおかげ頂いておるのですから。
 是は例えばこの、御信者さん方がちょっと簡単なお届けをなさいます。今いうようにちょっと今から久留米に行きますとこういう様なお届けです。はいお願いしとくよ。別に御初穂奉ってお願いされるわけではないけれども、んなら久留米へやらせて頂きますというならお取次ぎさせてもらう。そういう時程私は真剣に、お届けするんです。
 本人がね御初穂でも奉って本気でお願いしておる時、お供えでもこうさせて頂いて一心に願っておる時には先ずおかげです。けれども迂闊ぁつにちょっと久留米まで行って来ますなんてな時ですよ。事故に遭うたなんていうことになったんでは、親先生にお願いして行ったばってん、事故に遭うたちゅうならどんこん出来んですから。
 それで私はそういう時程、本人が軽う考えておる時程神様へお願いをする。だから帰ってきとったらお礼にも出て来ませんけれどもです、はあおかげで帰らせて頂いた無事に帰らせて頂いたと御礼を申し上げます。是は一事が万事です。
 おかげをおかげとどれ程、一と感じる人があり十と感じる人がある、千も万もの思いでおかげを、おかげと感じられる人がある、信心が深くなって行くというのは、そういうことなんです。
 だから深い熱いおかげ、深い有り難さというものが、もう次のおかげの受けものになるのです。おかげの受けものとはそういうもんです。だから同じ甲乙の人が同じおかげを頂いとっても、甲の人は十しか有り難いと思うとらん、乙の人は百も二百もの有り難い物を感じておる。そこに百も二百ものおかげが用意されておる訳です。
 最近ここでは自力の信心から、他力の信心。人力を付けて神力にすがる。そこからおのずから沸いて来る人力が本当な物だという訳なんです。ですからんなら、例えば申します様に、家の廻りにしたところで家の廻りにしたところでです。
 まあこの角という御理解の解という字は、角と書いてある。ね、それに刀という字が書いてあって、下に牛という字が書いてある。解ということはそういういうならば、牛をねもうこう、切り刻んでなくして行くという様な感じです。
 角煮の角という字は、矢張り角を突き合わせてといった様な感じで、私は昨日日田の方の御取次をさせてもらう時にそれをそう感じたから、是はいわばまあいうならば家の中の争い、または家と家との、いわば争いということじゃなかろうかがいえる。角を突き合わせておる姿じゃとこう思う。
 確かに一年二年の事じゃない、もう長い間新家と本家の方が、角を突き合わせておる。だからそういう、言うならば血で血で洗う、あら、を洗うような事にもなりかねないようなね、まあ状態を、有り難いと思えない。何とかして解決のおかげを頂きたいのですけれども、さあ自分の力ではどうにも出来ない。
 そこで神様にお願いをするんです。ならお願いをしたからというて、ならおかげを頂くというのじゃなくて、他力の働きという事は、もちろん、神様が、の御働きをただそのまま頂くとこういう、自分で気張らない、頑張らないというのです。
 私が信心したからおかげ頂いた、私がこんだけ修行したからといった様な、いわば表行的な信心から生まれてくるおかげは大したおかげじゃあない。
 もう本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行かないという事実が分かった時、初めてその、神様のおかげを、受けなければならない。そこで神様のおかげをいうならば、だんだん千も万も有り難いと分からせて貰える信心。
 そこでねなら、私共はどうあったら良いか。ただ腕こまぬいて、もう他力にすがるより他にないのだから、じっとしとってと言うのではなくてです、本気で私共が改まらして貰う。いわゆる受け物を作るということに一生懸命になったらいいのです。
 汚い受け物じゃ矢張りおかげが汚れる。小さい受け物じゃおかげが小さい。そこでなら、限りない豊かな心に成らせて頂く修行をさせて貰わなきゃならん、又汚い心を自分の心に感じた時に、それを清めようという、いよいよ信心にならなければならない。
 ですから廻りのお取り払いを、いわば解いてしまう。私はこの解という字からそういう様な物を昨日感じて、日田の方に聞いて頂いた。今日も又そこんところを頂くのですから、お互いがおかげを頂きたいと思うなら、先ずは家の廻りのいわば、解き放しというか、家の廻りの先ずはお取り払いを先ずは頂かなければならん。
 先日も告別式に久留米の従兄弟が参りましてです、先生、私は不思議で不思議で堪らん事があるっち言うんです。なしですか、なっしのというたところが、大坪の家っちいうところには、その、どういう訳か昔から皆んなちんばが多いちゅんです。
 私共の両親が、あんな足が悪かったでしょ。二人ながらちんばでしたでしょ。それから山本に行っとる、あっちの姉が大変やっぱりびっこ引いてました。
 足を手術して手術、お医者で手術しそこのうた。母はあのリュウマチを患った時分に、あんなに足がずっと悪い。ね、父は後軌道に勤めておる時に、筑後軌道の運転手をしておった。機関士を、機関士をしておった。そん時に下で修繕しおっ時に助手が動かした訳です。だから轢かれて足があんなにちんばになった。
 それから昨日その人と事と、従兄弟が言います様に、そのあちらの父親が、一時若い時に炭鉱に勤めておった事があった。で落盤で足をやられて、やっぱちんばでした。そしたら薄々どう、どういうことじゃろうかと思よったところが、今度この頃からその嫁御がですね、その従兄弟、嫁が自動車で行きおってから大きな、あのう何かダンプかか何かに、接触されてですね。
 それで何かお尻にこう大変強打したんだそうです。でそん時は良くなってから、もう二年も三年もしてから何か痛み出すから、あの医者に行ったところがその、骨と骨が離れとっとがそのまま肉が廻っ取るっちいう。
 だから今度もあの一緒に来て、私は初めてあのーあげんびっこになってから会った訳ですけれども、こげんしてからびっこ引きます。大坪の従兄弟が。嫁御も大坪の家に嫁に行ったばっかりにびっこになり、父親もあんなにびっこである。
 なら本家である私の方も両親があんなにびっこである。嫁に行っておる大和の私の叔母になるともその、びっこである。五十枝の事も申しました。実は私もここ十年ぐらい前、足が立たなかったという、事があったでしょう。勝彦なんかは、若先生である。
 もうそうですね、まだあのー嫁御貰ます前までは夜中にね、もうとにかく「しって」泣くぐらいに足が痛む、夜中に。おお、若先生びっこげなね。おかげで最近はおかげを受けておるそうですけれども、ま、本当にそこに家の廻りを感じん訳にはいけないということをです、あの廻りなんていうことは申しません。信心が無いから。けれどもどうしたこっちゃろうかね先生っち言ってから、私に話します
 からね、それがいわば家の廻りばのっち言ってから話した事でした。おかげでそういう、是からはねもうおかげでびっこが出来んようなおかげに段々なって来るでしょう。うん。けれどもとにかく矢張り、お互いがね自分の家の事を思うてです、まあ様々な事。
 例えていうとね、あのう久保山先生が、この爪をこうこうっちいうて噛みなさる癖があった。そしたらその息子さんの茂さんがやっぱ噛む。今度孫がやっぱ一様にもうてんで爪が坊主になるごと噛む癖がある訳です。
 もうどげん考えてもここには目に見えない何者かが支配しておる、それを受けておるということが解るでしょうが。ただ爪を噛む位なら良いけれども、その根というものは大きいです。形に現われとるのがそれだけなら。
 それこそ象にも似た様な大きな牛があって、牛の廻りがあって、家の廻りがあって難儀な事にはなったけれども、その難儀のおかげで今日合楽は人が助かる様になった。
 だからその難儀というものをいかに尊く有り難く受けたか、受け抜いたかということになるのです。その受け抜く心がです、いうならば私はいよいよ本気で改まらさせて貰う、本気で、磨かせて貰うという、教えに基づいた生き方をしないとです、その受け物が出来んのです。
 その様にしてです、例えば牛が此の刀ですね、刀の下に牛と書いてある。解けそれ全体を言うて解ということは解けて行くということ、解けるということ。身の廻りも、家の廻りもです、信心によらなければどうにも出来ない。そして自分で治そうと言うてもです、どうにも出来ない。神様のおかげを頂かなければ、自分の心一つがどうにも出来ない。
 そこで私共がです、ただその事を唯縋ったから、願っただけではなくて、いよいよ本気で改まる、本気で清まろうという修行させて頂く内にです、神様が下さるおかげをキャッチする心が生まれて来る。だから信心とは本心の玉を磨くのであり、信心とは日々の改まりが第一ぞと教えて下さるゆえんであります。
 どんなに例えばおかげを頂いておっても、どんなに財産を沢山持っておっても、争いが絶えなかったり、又は寂しくお金が沢山あるから懐は暖かい、かろうごとあるけれども、そうじゃあない、寂しゅうして寂しゅうしてという、その晩年に入って行く人達が沢山あります。
 それは廻りのせいです。だから先ずは廻りのお取り払い、お取り払いから。そこで、やれ痛や今みかげをという心になれよということにもなって来るのです。はあ困った、ああ痛いああ苦しい。そりゃ苦しいです。
 けれどもお取り払いを頂いておる事実を一つ分からせてもらって。分かりません、私共人間には。けれども、痛いけれども今お取り払いを頂いておると御礼を申し上げる様な心の状態が出来て来る。そして本当にそれが、お礼が言えれる様な心がだんだん深まって来る時です、今までおかげをおかげと思わなかった事を、おかげと感じる様になり。
 例えば昨日、若先生の星の行きでも同じ様にです、無事に帰って来たと聞いたら、矢張りもう休んどったけれども起き上がって又ここに御礼に出て来なければおられないものを感じる程しの有り難さと、元来その有り難さの相違というものがです、おかげの受け物のいうならば相違なのです。
 おかげの大きなおかげを頂きたいなら、大きな喜びを感じれれる信心にならなければならないということですよね。